帰国子女の憂鬱…楽な人生?とんでもない! 漢字に青春、悩み尽きず 英語コンプレックス抱えた人も

 

 

英語がペラペラで入試も優遇されることの多い帰国子女をうらやましい気持ちがあります。日本で生まれ育った記者は「自分も帰国子女だったら」と思ったこと、数えきれません。ですが、帰国子女の人たちも悩みが尽きないようです。青春の曲を共有できない、漢字が分からない…。中には英語にコンプレックスを持つ人も。「純ジャパ」の人たちと同じように世の中に疲れてきた「帰国子女」たちに話を聞きました。(影山遼、河原夏季)

敬語も175Rも知らず

 「先輩たちと話す時に敬語なんて知りませんでした。話していて向こうがイライラしているのは分かりましたが、なんで怒っているのだろうって」

 小学3年生から中学1年生まで父親の仕事のためオランダで過ごしたという会社員の男性(27)は、帰国後に途中入学した中学校で、戸惑いがあったと振り返ります。男性は、誰しも一度は習ったことのある国際司法裁判所(ICJ)のあることで有名なオランダのハーグで5年間生活。現地では、オランダ語より英語で学ばせたいという親の意向でインターナショナルスクールに通っていました。

 もちろん最初は英語ができず。フォローのため、授業中に隣で専門の教師が1人ついていてくれたといいます。周りの子どもについては「話しかけてくれる子が多かった。一方、興味を持ってくれない人は全く持たない、日本と同じです」。

 「教育先進国」として取り上げられることの多いオランダ。しかし、やはり厳しいことが多かったのが帰国子女。「英語が分からないのに、英語で他の科目を勉強するって無理な話。なんとなくなら分かるけれど」。一方、土曜日に通っていた日本人学校にもあまりなじめませんでした。

 男性と同じ世代の記者にとってはBUMP OF CHICKENや175Rなどが青春ですが、男性は「みんなのはやりが全然分からない。いまだにカラオケではついていけません」と物悲しげ。「日本人なのに日本人じゃない感じでした」

 

 

 

 

身ぶり手ぶりマネされ…

 さらに厳しい体験をしたのは、定番のアメリカ帰りを経験して、東京都大田区に住む会社員女性(26)。こちらはハリケーン・カトリーナでも知られるルイジアナ州に小学3年生から、父親のMBA(経営学修士)留学に家族全員でついていっていました。

 渡米前に半年通った英会話教室は「ほとんど意味がありませんでした」。現地の学校に入学すると、算数が簡単。その代わりプロセスを問われ続けました。そもそものこととして「相手が何を話しているのか全く分からなかった」。その後、自然と話せるようになったとはいいますが難しいものです。

 小学5年生で日本に戻ってからは、(純ジャパから見たら)大げさな身ぶり手ぶりをマネされ、現地にいた時は日本で習う内容はやらなかったため、隣のクラスの男子に漢字の間違いを馬鹿にされ…。半面、英語の授業は「超簡単」でした。

 

 

 

TOEIC900点は努力の証し

 TOEICは900点(990点満点)。「さすが帰国子女だね」とよく言われるようですが、これ、帰国子女だからではないらしいです。中学校で初めて受けたTOEICは、リスニングが400点(495点満点)だった一方で、リーディングは100点にとどまりました。「しょせん小学生レベルの英語。長文なんて全く分かりませんでした。TOEICはビジネスの話なので…」

 「まじで勉強したからなのですよね。父親が厳しかったので泣かされるまでやりました」と訴える女性。「イディオム(慣用句)もめっちゃ覚えたし、ネクステ(英語の参考書=高校の時に記者も使いました)もやりこみました」。

 女性の場合、アメリカにいたのは小学校の時のみ。「中学に行っていたら、もっと発言しないと評価されなかったかもしれないけど。今でも自分の意見を言うのは得意でないです」と、ステレオタイプな帰国子女のイメージとは違った一面も。女性は「私は純ジャパよりの帰国子女」とまとめます。

 


 2人に共通しているのは、帰ってきても日本の県庁所在地が分からない、漢字が分からないので漢字で書かなければいけない回答はだいたいバツ…。男性は「漢字や地理など日本特有の勉強ができなくなった代わりに英語ができるようになったのでトントン」とまとめます。帰国子女の中には会話は完璧だけれど、体系的に学ばなかった文法は壊滅的という人もいるそう。

 入試には英語力も生かしましたが、男性は「せっかく向こうで身につけた武器は使うべきだという考えでやってきました」。女性も「苦労した分、自分の強みにしました」と話します。

 

 

 

帰国子女だけど…英語コンプレックス

 意外なのが、アメリカからの帰国子女なのに「英語」にコンプレックスを持っていた人。

 神奈川県鎌倉市に住む自営業の男性(29)は、メディアで働いていた父親の転勤のため、5歳から8歳までニューヨーク州で過ごしました。ニューヨークと聞くとタイムズスクエアやブロードウェイがあるマンハッタンを想像しがちですが、郊外だったそうです。これも純ジャパの偏見でしょうか…。

 男性が帰国したのは小学2年生の時。鎌倉市内の小学校に編入しました。たった3年のアメリカ生活でしたが、日本に帰ってくると周囲からは帰国子女という目で見られました。「いじめはありませんでしたが、友達からは冗談で『アメリカ人』と言われましたね。からかうという感じで、コミュニケーションの一環でした」

 中学校に進むと英語の授業が始まりました。授業では、「先生よりうまい」発音でどうしても目立ってしまいます。「先生もやりづらかったと思いますし、僕もやりづらいです。気を遣って、あえて日本語っぽい発音にして空気を読んでいました」

 お調子者がいたら発音をマネされそうですが、友達は「すごいね」と認めてくれていたといいます。いつの間にか、英語はアイデンティティーになっていました。

 得意なはずの英語でしたが、使わないと日々その能力が落ちていく一方です。「英語ができたこともコンプレックスだし、できなくなることがさらにコンプレックスでした」

 大学入学後、1年間オーストラリアに語学留学しました。「現地では、ちょっと英語ができると『うまいね』とほめてくれました」。留学のかいあって、英語力を取り戻すことができたといいます。

 男性は学生時代、誰に言われたわけでもなく、自分自身を追い込んでいました。自然と「英語のテストではいい点をとって当たり前」というハードルがあったそうです。最低でも95点。むしろ100点を取らないといけないというプレッシャー…。

 「周りは、僕が英語をできるかどうかはどうでもいいじゃないですか。でも、自分が出来なきゃいけないと思っているから、勝手にプレッシャーを掛けて。中学の時、テスト前に英語は一番勉強しなくていいはずなのに、一番勉強していました」

 男性は帰国子女の環境について次のように語ります。「帰国子女の方が日本に戻って一番苦しむのは、違いを認めてくれないことだと思います」

 「日本では、みんな一緒が良いとされる。みんな一緒のランドセル、みんな一緒のうわばき、みんなで掃除しましょうみたいな。ちょっとでも違うとのけ者というか、変な目で見られます。アメリカだと、違うのが当たり前。いろんな民族や国の人がいるので、違うのがステキとなるんですよ。アメリカと日本では、『違いがいいね』というのと、『違いがよくないね』という文化なので、真逆なんです」

 

 

ウィズニュースから転載